第十七話 ナターシャ
私と彼の間に子供ができた。もう出産間近だ。妊娠中も彼は私に気を使ってくれてなんでもしてくれた。家事も彼がしてくれて買い物も彼がしてくれた。マッサージも毎晩してくれた。私と彼は一度もけんかなどしたことがなかった。昨日までは。
妊娠したとわかってもう九か月を過ぎて、子供が女の子と分かった。それで子供の名前を決める会議をしばしば行っている。私は女の子の子供ができたら「舞子」という名前にしたいと、結婚する前から思っていたのでそう伝えると反対された。
なんで?と尋ねると、俺も付けたい名前があるから。
といわれたのでどんな名前?と続けて尋ねると彼はこう一言。
「ナターシャ。」
は?なめてるの?私は日本人だしあなたも日本人でしょ?なんで急にかぶれた?と思ったがせっかく意見を出してくれたので、やんわりと否定することにした。
「素敵だね。けど日本っぽい名前にしない?海外ドラマじゃないんだから。」
つい最後に余計なことを言ってしまったが彼は気にしていないようだったので安心した。
ところが安心はすぐに崩れた。
「そういう区別はやめないか?日本人の子供だからって日本っぽい名前にする必要はないだろう。そんな法律もない。」
は?正気か?正気なのか彼は。どうすれば考えを改めてくれるのだ?そうだ。まずはナターシャにしたい理由を聞こう。
すると彼は、
「語感。」
と答えた。は?語感?確かにナターシャっていうの口が気持ちいけども。それで選びますかね?もっとほかにもあるだろ。どうすればいいんだ。
そうか、彼も冷静じゃないんだ。いったん保留して今会議は終了しよう。その旨を伝えて私は冷蔵庫に飲み物を取りに行った。彼にもビールを持って行ってあげよう。毎日家事をしてるうえに、お酒好きの私を気遣ってお酒を飲まないようにしてくれている彼は、きっとおかしくなってしまったんだ。そうであってくれ。お酒を飲んだら普通に戻ってくれ。でなければこっちがおかしくなってしまいそうだ。
ビールとお水を持ってリビングに戻ると、
彼は海外ドラマをテレビで見ていた。
は?いつも見ないだろ!かぶれんな!アピールしてくるな。これは本気でナターシャにしたいんだな。よし。海外ドラマについては無視しよう。
「ビール持ってきたよ。たまにはのみな。いつもありがとうね。」「サンクス。」
どっちだ?ナターシャにしたいアピールなのか、普通に感謝の意を伝えてきたのか。サンキューなら気にしなかったのかもしれないがサンクスと言われると気にしてしまう。いやここは我慢しよう。このまま一緒にいるとナターシャ案に賛同してしまいそうなので先に寝ることにした。もちろん、「おやすみ」に対する彼の返答は「グッナイ」だった。無視した。
朝になった。いつも通り彼が朝食を作ってくれていた。
「今日はこれ作ったよ」とポーチドエッグを出してきた。
は?なんでこんなの作れるんだよ。海外アピールだと思ったが無視した。やけに彼は寝不足気味の顔をしている。しかも料理を持ってきたけどフォークも何も持ってきていないじゃないか。ぼーっとしすぎだ。と思ったけど作ってくれたのはうれしいから自分でキッチンに取りに行った。するとあり得ないくらいの割られた卵の殻がキッチンに捨ててあった。これはもしや、アピールのために昨晩夜通しでポーチドエッグを作る練習をしたな。どんだけ本気なんだよ。しかし無視した。彼は出勤した。もちろん「いってらっしゃい」の返答は「ハバナイスデイ」だった。無視した。
まずい、このままだと彼の熱意に押されてナターシャ案に賛同してしまいそうだ。そうだ彼から距離を置こう。実家に帰ろう。そして私は置手紙をして実家へ帰った。
すると次の日に実家に速達でハガキが届いた。横書きで、自由の女神がプリントされた手紙に彼の字でつたない英語が書かれている。スペルミスを何個も見つけたし、やけに難しい文法を作ってくるから私には何を書いているか理解できなかったが、「Natasha」という単語だけは太字で書かれていたので伝わってきたが無視した。母に彼の意見を伝えてみると大笑いしていた。父に伝えると、父は賛同していた。これだから男は。
どうすれば彼はナターシャ案から身を引いてくれるだろうか。解決策が思い浮かばない。しかし実家にいつまでもいてもらちが明かないので明日戻ることにした。朝になりに荷造りをして昼過ぎには家についた。家の中に海外風の装飾がされていることを想定していたが、大丈夫だった。
とりあえず一安心して、カフェインフリーのコーヒーを淹れてマグカップに注ごうとしたら、家中のマグカップが、Nという文字がドンと入ったものに変わっていた。陰湿だ。無視しよう。
彼が帰宅した。今日も名前決め会議が始まった。彼はコロナビールの瓶を片手にピザを食べているが無視している。そろそろガツンと言ってやろうかなと思った時に、産婦人科の先生から電話がかかってきた。
「もしもし、前田さんですか?すみません。あってはならないことなのですが、出産予定のお子さんの性別を誤ってお伝えしていたことに、カルテ整理をしていて今気づきました。本当に申し訳ございません。」
私は「大丈夫ですよ」とだけ伝えて電話を切った。本当にあってはならないことだが今回は許せる。これでナターシャ案は不可能になったからだ。
その旨を彼に伝えると落胆していた。
慰めて、男の子の名前何にすると尋ねると彼はこう一言。
「伊右衛門。」
よし、明日実家に帰ろう。