diary-sentencesのブログ

日々たらたらと小話的な物語的なのを書きます。

第三十二話 F氏 2

トンボはF氏のシャツから離れようとはしなかったようだ。一晩中そこにとどまっていたと考えると、その執着心は尊敬に値するほどだ。しかしそのシャツを着なければ直接的な害はないのだから、そこまでは困らない。F氏は他のシャツを羽織って、荷物を持ち仕事へ向かおうと、玄関を出た。

 

もしかしたら帰宅する頃にはトンボもいなくなっているかもしれない。そう思うことで苦手なトンボによって起こったパニックを押さえつけようとしている。そんなことを考えながら駅に歩いていると、左肩に何か影が。目をやるとそこにはトンボ。

F氏はあまりパニックにならなかった。慣れというものは怖い。ああまたこいつが来てしまったか、と思ってしまう自分に驚きを隠せない。

 


恐らくこのセミは、ベランダに干してあったシャツから離れてF氏の元にやってきたんだろう。色合いや羽の大きさが全く同じだ。F氏はこのトンボを可愛がることにした。こいつに愛情を持つようになればきっとストレスではなくなる。そう、そう思おうとした。

 


それからというものF氏はトンボと共に過ごした。もちろん入浴時などのプライバシーが保たれるべき場面や、会社などトンボが乗っていることで他者に迷惑がかかってしまう場面においては、トンボはF氏から離れた。

 


第一印象は大嫌いな虫ということで最悪であったが、F氏の方から親しみを持って接するようになるとその関係は良好になっていった。トンボは自分でエサをとってたべることができるし、そもそも言葉を話さないんだから放置しておいて良い。F氏にとって過ごしやすい環境であった。

 


それに比べC子とはなかなかな上手くいかない。第一印象はど真ん中のタイプだったのだが、関係を深めるごとに嫌なところが溢れ出てくる。人と人の関係だからそれは仕方ないことなのだろうが溢れ出てしまうのはどうなのだろうか。意見が合うことの方が珍しいし、1人でゆっくりしたい時もC子の相手をしてやらないといけない。

しかし別れたいかと言われればそうではない。せっかくこんなに美しい人に出会えたのに、もったいない。その思いがあるから別れたりはしない。

 


そこでF氏は単身赴任することにした。もともと同居している訳では無いが、ほぼ毎日どちらかの家にどちらかが足を運んでいたのでほとんど同居と同じだ。国内に希望を出そうとも思ったが、週末は会いに来てとか言われそうだったので外国へ行くことにした。

 


大きなキャリーケースに荷物をパンパンにつめ、クッションでおおわれた箱にトンボをいれてやった。少し窮屈だがここで我慢してくれと話しかけ、キャリーケースを閉じた。

 


F氏がC子から離れるために選んだ国は、日本とは違いかなり暑い国だ。それに湿気も多い。空港に着いて外に出るやいなや、汗が吹き出してきた。そうだ、トンボをキャリーケースからだしてやらねば。そう思い急いでキャリーケースを開けて箱から出してやった。すこし疲れているようだったが生きてくれてはいた。トンボのために観光などせずすぐに、社宅に向かった。ここなら涼しい。しかし問題があった。エサだ。普段はトンボが自身で餌をとっていたが、この国では気候的にトンボは外に出られない。かといってF氏が自らエサを取りに行っている暇も、虫を克服した実績もない。

 


F氏はこのトンボとの別れを決意した。このままお腹を空かせて死んでしまうだろう。それをわかって過ごすことにした。

 


1年ぶりに日本に帰国した。C子と会うのもかなり久しぶりだ。もちろんトンボはいなくなってしまっていた。死んでしまったばかりは寂しさが大きかったが今では良い思い出となっている。

 


夕暮れ時に河原を歩いていたら懐かしい情景が思い出された。あの時は頑張ってトンボを振り払おうとしていたな、懐かしいなとF氏は思い出に浸っていた。寂しいという感情が生まれてきてしまった。1年前まで半年ほど一緒にいてくれたのはC子でも家族でもなくトンボだった。返事が返ってくる訳でもないのに悩みを相談したり、愚痴をこぼしたりした。F氏に何も言わずに寄り添っていたのはトンボだったのだ。

 


トンボの群れをくぐり抜けて左側を向けば、肩にトンボがいてくれる気がしてそうしたがやはりいない。そこには何もいない。背中を丸めてF氏はまた歩き出した。

 


何かが左肩を触った。もしかして、と振り返るとそこにはC子が。私がいるよ、なんて言うキャラじゃないからそんなこと言わなかったがF氏はそう思った。F氏にとってC子はかけがえのない存在となった。世界で1番自分に合うのはC子ではないが、C子といるべきなんだなとF氏は思ったところだった。